Home 年表3 日本学術協会第11回大会新聞記事へ
前田公爵とご一緒に撮影 前田公爵主催の歓迎園遊会 於兼六公園(昭和10年)
昭和10年10月22日 錠二の五男(理博) 故櫻井季雄氏撮影
昭和14年3月号の「加能人」の送付礼状と共に自身撮影の写真を同社へ送ったうちの1枚。
 金沢で開催された日本学術協会第11回大会にて式辞を述べ、なお「学術振興会の使命に就いて」と題して精力的に講演を行った父錠二と共に出席した五男の季雄・理学博士(理化学研究所所員)は「赤外線写真の研究」で総会席上、日本学術協会賞を受賞し、記念講演を行っている。閉会後、先祖ゆかりの気多大社を参拝したり、錠二の生誕地(当時馬場町)を訪れ「父が幼少時に馬を繋いだ桜の木」を確認できたと後々季雄氏は語っておられた。 
「赤外線写真の研究」といえば季雄氏は若い頃からライカを愛用していて、よく富士山を撮りに出掛けられていたそうだ。丸山町の自宅には綺麗な富士山の赤外線写真が飾ってあった。「赤外線写真の研究」で日本学術協会賞受賞を報じる新聞記事を祖父と父が並んで眺めながら「鳶が鷹を産んだ」とうれしそうにおっしゃったおじい様のやさしいい声音を幼心にも耳に残っている。「理研ウルトラジン」や他の新聞掲載記事の切抜き帖などは、丸山町の家ごと全て4月13日の空襲(昭和20年)で焼失してしまった。と三女の飯高輝子氏は残念そうに語っていた。

            その後の桜井季雄博士の研究
        (理研ニュース 2000年6月号へリンク)特別企画 ベンチャーの源流を探る)  
恐らくカメラの原点は父の錠二が大正7年頃、外遊先で、イニシャルを刻みお土産に持ち帰ったものであろう。 曙町の邸には暗室も設えてあった。勿論当時は現代のようDPE店など無かった時代である。